クリームバスとは、 バリエステの一種で、天然ハーブのクリームを使った頭皮マッサージのこと。髪にクリームをつけて頭皮をマッサージした後、スチームでクリームの栄養を頭皮と髪に浸透させる。頭のツボを刺激する事により血行を促進して頭皮の健康を保ち髪に栄養を与える。 外国為替に見えたが、実はポーランド側の戦術どおりに進んでいた。しかし抵抗勢力側に寝返った顧問から「勝利の望みは薄いので早期講和を」との助言を受けたスタニスワフ2世は抵抗勢力側と妥協して戦争を中止してしまった。この直後の1793年、第二次ポーランド分割が行われた。1793-94年、コシチューシュコが蜂起を起こしたが鎮圧された(「コシチューシュコ蜂起」)。1795年、第三次ポーランド分割が行われ、ポーランド国家は消滅した。ポーランドの大貴族(「マグナート」と呼ばれる)の広大な領地はそのほとんどがポーランド東部に集中しており、この地域はロシア帝国に組み込まれた。マグナートの領地は、各領主がロシア皇帝に臣従を誓うことを条件に守られた。 叙事詩『パン・タデウシュ』第三巻より 「きのこ狩り」の場面1807年、ナポレオン戦争でポーランドはワルシャワ公国として再び独立した。しかし、ナポレオンがロシア遠征に失敗して失脚すると、1815年のウィーン会議によって、ロシア皇帝を元首とするポーランド立憲王国となった。多くのポーランド人が国外、特にフランスに亡命した。アダム・ミツキェヴィチの叙事詩『パン・タデウシュ』(これをもとにしてアンジェイ・ワイダ監督が製作した映画『パン・タデウシュ物語』)と、池田理代子の漫画『天の涯まで−ポーランド秘史』はこの時代を扱っている。 外為のショパン像ポーランド立憲王国における憲法はロシアによって無視された。フランスやベルギーの革命にポーランド軍を派遣して介入ようとしたことにポーランド全土で反対運動が起こり、1830年、ロシア帝国からの独立を目指して「十一月蜂起」が起こったが、翌年鎮圧された。ポーランド出身の作曲家ショパンは国外にて蜂起発生の報を聞き、革命のエチュードを書いた。 1856年にロシア帝国がクリミア戦争に敗れて国力が弱体化すると、これを機にポーランド・リトアニア連合王国の復活を目指す人々が結集し、1863年、旧ポーランド王国領と、旧リトアニア大公国領で同時に「一月蜂起」を起こしたが、これもロシア帝国によって鎮圧された。数百人のポーランド貴族が絞首刑にされ、十数万人がシベリアのイルクーツクなどに流刑となった[2]。 ロシアに鎮圧された一月蜂起 擬人化されたポーランド(手前の女性) とリトアニア(奥の女性)1871年からは、プロイセン王国内の旧ポーランド王国領であるポーゼン公国では、ビスマルクの文化闘争により、ポーランド人に対する抑圧政策が行われた。文化闘争はドイツ人であるかどうかを問わずプロイセン王国内のすべてのカトリック教徒を相手にしたものであるが、ポーランド人の圧倒的多数がカトリック教徒であったため、特に抑圧の対象になった。カトリック教徒に対する文化闘争は1878年に頓挫したが、ビスマルクはその後もポーランド人抑圧政策を続けた。ポーランド人抑圧政策はヴィルヘルム2世がビスマルクを解任した後も続けられ、ドイツ帝国が第一次世界大戦で敗北した1918年に終了した。しかしこの抑圧に対するポーランド人の抵抗は頑強で、ポーランド人はドイツによる抑圧に対してはポーランド文化をもって徹底抵抗した。抑圧政策によってかえってポーランド人の「連帯」とカトリック信仰は確固たるものになった。 FXの3人の摂政と衛兵1916年、第一次世界大戦の最中にドイツ帝国によってその衛星国としてのポーランド王国が建国された。国王が決まるまでの間としてハンス・ハルトヴィヒ・フォン・ベセラーが総督となり、3人のポーランド人が摂政を務め、6人のポーランド人政治家が歴代首相となった。2人の娘がいずれもポーランドの名門大貴族に嫁いでおり、自らもポーランドのジヴィエツ(?ywiec)に住み流暢なポーランド語を話したオーストリア=ハンガリー帝国皇室の大公カール・シュテファン(Karl Stephan、ポーランド名カロル・ステファン・ハプスブルクKarol Stefan Habsburg)がポーランド国王の最有力候補で、カール本人も積極的であった。しかしこの案にはオーストリア皇室の家長であるオーストリア皇帝カール1世が乗り気でなく、結局最後までポーランド王国の国王となる人物はついに決まらなかった。(カール・シュテファンは1918年にポーランドが独立した後もポーランドに帰化してジヴィエツに住みつづけ、1933年に当地で死去した。子孫はポーランド人としていまもガリツィア地方に住んでいる[3]。) 1918年に第一次世界大戦が終結すると、ヴェルサイユ条約の民族自決の原則により、ドイツ帝国とソビエト連邦から領土が割譲され、ユゼフ・ピウスツキを国家元首として共和制のポーランド国家が再生した。 ユゼフ・ピウスツキ1919年にはソヴィエト連邦との戦争に突入した。翌年、ポーランド軍はワルシャワに迫った赤軍を撃退しこの戦争に勝利した。 1922年に国家元首職を引退したピウスツキは、その後の政界の腐敗を憂い、1926年にクーデターを起こして政権を奪取した。ピウスツキはポーランド国民の圧倒的支持のもと、開発独裁を主導した。この時期にポーランドの経済は急速に発展し、国力が強化された。国民のカリスマであったピウスツキが1935年に死亡すると、ユゼフ・ベックを中心としたピウスツキの部下たちが集団指導体制で政権を運営したが、内政・外交で失敗を繰り返し、その点をナチス・ドイツとソヴィエト連邦につけ込まれるようになった。 ドイツ軍に攻撃されるワルシャワ王宮1939年8月、ナチス・ドイツとソヴィエト連邦が締結した独ソ不可侵条約の秘密条項によって、国土は再び両国に分割されることになる。1939年9月1日、グダニスク近郊のヴェステルプラッテのポーランド軍陣地への砲撃を手始めにドイツ軍とスロヴァキア軍が、9月17日にはソ連軍が東部国境を越えてポーランド侵攻を開始し、ポーランドをドイツ、ソ連、リトアニアの三国で分割占領した。ポーランド政府は当初パリ次いでロンドンに拠点を移し、戦中のポーランド人は国内外で様々な反独闘争を展開した。 旧国境と新国境1945年、第二次世界大戦が終結するとポーランドは復活したが、英・米・ソのヤルタ会談に基づいて国境が定められ、領土が戦前と比べて大きく西方向に平行移動した。ソ連はポーランド東部を自国に併合した代わりに、ドイツ東部をポーランドに与えた。これはスターリンが、992年にボレスワフ1世が確定したポーランド公国国境の回復に固執した結果である。事実、新しい国境線はボレスワフ1世時代のポーランド公国の国境線の位置に非常に近いものとなった。さらに軍事的理由から、ドイツとの国境線はほぼ最短となるように調整された。これにより、敗戦国ドイツは戦前の領土の25%を失うこととなった。現在の領土の西側3分の1近くが戦前のドイツ領である一方、この地域の大半は14世紀までポーランド王国領であり、その後も最終的にプロイセン王国に併合されるまでポーランドの影響が及ぶ地域もあったため、ポーランドの視点では数百年ぶりの領土回復となった。 この地域には100万人のポーランド人(原住民)とともに300万人のドイツ人が住んでいたが、赤軍の進攻を恐れて多くのドイツ人が西へ逃避してしまっていた。残ったドイツ人の多くも強制移住によりポーランド国外へ退去されられた(ドイツ人追放)。共産主義政権により民族を問わずポーランドに居住する住民すべてを対象に財産の国有化が行われ、これらドイツ人が残した不動産も国有化された。 一方、ソ連に併合された旧ポーランド東部地域ではポーランド系住民がソ連に財産を国有化されたため、120万人が退去してポーランドに移住してきた。 ポーランドを訪問する教皇ヨハネ・パウロ2世終戦後は、ソヴィエト連邦の強い影響下に置かれるとともに、ワルシャワ条約機構や、1949年1月ソヴィエト連邦と東ヨーロッパの共産圏で、西側のマーシャル=プランに対抗するものとして設立されたコメコン(経済協力機構)に参加。社会主義国となって東西冷戦に巻き込まれた。 ワルシャワ大学前での「連帯」運動しかしソヴィエト連邦の支配する体制による抑圧と搾取に抵抗する市民による民主化運動はこの期間に確固たるものとなり、運動は拡大していった。1979年6月にポーランド出身のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世が故国ポーランドを訪れ、国民に熱狂的に迎えられた。これがポーランドの民主化運動、ひいては東欧全体の民主化運動に決定的な役割を果たすことになった。1980年9月17日には独立自主管理労働組合「連帯」が結成された。